肖像画の注文制作 | 池内佑衣 -あなたやご家族、ペットの姿を日本画に-

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エッセイEssay

カウンセラー資格取得

カウンセラーの資格を取得しました。
『シニアピアカウンセラー』と『メンタル心理カウンセラー』です。
学習を始めた経緯とは……
ここ数年間、遠くで暮らす80歳代後半の母から、毎日のように電話があり、私は母を精神的に支えてきました。
昨年1月、母が急逝しました。直前まで母は私と電話で話をしていましたが、その日を最後に母からの電話はぷつりと途絶えました。
数か月が経った頃、私が日々母の話を聴いて寄り添っていたことは、心を傾けて聴く(傾聴)、まさにシニアピアカウンセリングだったのだ、と知りました。
私にとってカウンセラー資格の学習は、母と歩んだ傾聴の日々の延長です。
今後の日本に必要な心の持ち方のようにも思います。
これからも、『チャイルドカウンセラー』など全世代に対応できるように、さらに学習を続けていくつもりです。

2018年5月



全世代に対応するために、さらに『チャイルドカウンセラー』及び 『上級心理カウンセラー』の資格を取得しました。

2019年1月

亡き母からの語り継ぎ

今年1月に亡くなった母は、生前私や孫に戦争の語り継ぎをしてくれていました。また子孫にだけでなく、戦争体験記の募集があるとラジオや新聞社に投稿し、ラジオではオンエアされたこともありました。
母の遺志を受け継ぐ意味で、一昨年、母87歳のときの文章をここに紹介します。
            …………………………………………
「語り継ぐ戦争」
太平洋戦争末期、日本の敗色濃く、サイパンを基地にして、日夜本土は空襲を受けました。私たちは寝る時も枕元に貴重品、救急薬を入れた小さな袋、防空頭巾を置き、モンペをはいて休みました。空襲警報が下りると外にある防空壕に入りますが、爆撃の目標になるので灯をつけることは許されません。真っ暗な家の中を手探りで台所に出て流し台にぶつかったり、バケツに当たったりしながら、裏口から飛び出したものです。
昭和20年3月、大空襲を受けました。南一帯焼け落ちるぐれんの炎が、南向きの我が家に不気味に映っていたのを忘れることができません。
6月に入って、すぐ近くの鉄道西側が焼け野原になりました。私共は、父が2年前に亡くなり、弟は小学生なので田舎へ疎開し、母と私とで家業に精出しておりました。6月7日午前、商談に見えた方がまだおられるのに、警報が出ました。B29、70機の来襲です。近くにいた人たちもあわてて防空壕に飛び込んで来ました。爆風で目や鼓膜をいためないように、教えられた通り、指でしっかり押さえてからだを伏せました。
焼夷弾の落ちるザザザーッという音、爆弾の落ちるゴゴゴーッという音。激しい地鳴りがして防空壕が上下左右に揺れます。
地鳴りが止み、あたりが静かになったので、防空壕からそっと首を出しました。あたりは一面の煙です。勝手口から、そっと家の中をのぞきました。煙の中から向かいのおばさんが顔だけ出して「奥さん」と呼ばれ、母と私は飛び出しました。この向かいのおばさんとおじさん、母と私の4人はしっかり手をつないで、「放すなよ!」と言うおじさんの声に力づけられ、煙で見えない道を走りました。
運河にかかった橋を渡りかけたとき、橋の下の土手の斜面にたくさんの人が倒れていました。あの激しい爆風で亡くなられたのでしょう。
土手の上から見る家々は、まるでマッチ箱でも燃すように、簡単にパチパチと音を立てて赤い炎に包まれています。空はどんより低く、後に雨になりましたが、地獄絵とはこのことを言うのでしょう。
この2ヵ月後に終戦。母は、すべての財産焼失と、貨幣の暴落で、苦労の末、弟の高校卒業も待たずに亡くなりました。空襲さえなければ、母の死も、もう少し幸せだったはずです。
何も知らない、知らされていない庶民が巻き込まれる戦争は、今後絶対、二度としてはなりません。

2017年8月

私と日本画 -寺子屋教室-

若い頃、女流日本画家の湯浅清香先生が主宰する教室に通わせていただきました。

ご自宅での教室は、先生が描かれた作品の宝庫でした。
いろいろな場所からスーッと出しては、素敵な作品の数々を見せて下さいました。
ある日は、やはり日本画家でおられた故御主人様の墨画も見せていただき、その線描の深さに私は感動しました。
しかし、これはなんとすごいことだったのでしょう!!
後年、ひしひしと感じます。

湯浅先生は、素敵な方でした。
先生ご自身は、絵の道を歩む日々にも関わらず、若い私たちを育てて下さいました。

その後、私は故郷を遠く離れました。
今、湯浅先生のことが、故郷への思い出と共に、重なって思い出されます。
私の原点なのだと思います。

先生のような「寺子屋教室」を、私も、今から20年以上前、1992年に始めました。
「自分の子どもと同じように子どもたちみんなが大事で可愛い!」という気持ちでした。
それから間もなく、大人の方も学びに来て下さった教室です。

これからも、何か少しでも人のためになれば、そう私は思っています。

2014年11月

娘への伝言

鰯の団子汁を作った。昔、母はこの料理をよく作ってくれた。
懐かしい気持ちで、まず鰯を洗った。

母はどんなときも台所に立って、家族のために食事を作ってくれた。
夫、姑、親戚など一族からもたらされる多くの心労を抱えながらも、毎日変わらず料理を作り続けた。
そんなことを考えながら、鰯の身を細かく刻み始めた。

結婚して故郷を遠く離れ、三十年以上になる。
母と同じように、どんなときであっても食事を作ってきた。
私の立つ台所には、その時々の悩みがもちこまれた。
二人の娘の進路が大半だった。
私にとって台所は、料理を作るだけでなく、考えるための大切な場所である。
手を動かして野菜を刻みながら料理の手順を頭のなかで組み立てると同時に、次元の違う現実の問題を解決に向けて考えている。
台所という空間で、料理しながら考えることがいつの間にか習慣のようになっていた。

包丁で小さな骨も一緒に切る。
まるでハモの骨切りみたいだなどと考えながら、滑らかになるまで鰯の身を刻み続けた。
次に水を切った豆腐と混ぜ合わせた。ふと、母の言葉を思い出した。
「塩を入れないと固まらないから、忘れないようにね」
と結婚前の私に、母は何度も言った。
片栗粉を使わないで、塩だけで柔らかい鰯の身と豆腐をスプーンで取り、湯に放つと固まるのである。
結婚後、素材を生かす料理の素晴らしさに気づいた頃から年月が経つにつれて、母の言葉は少しずつ私のなかで深まっていった。

そうだ、捨てようとした皮と背骨も使おう。
身と皮の間は栄養豊富だし、背骨のカルシウムも頂けるということはなんと有難いことか。

私は皮を刻み始めた。それを具に加え、塩を忘れずに入れて混ぜ、スプーンですくって沸かした湯の中にひとつずつ落とした。
背骨は野菜を煮る頃に最後に入れ、酢を数滴背骨にふりかけた。
これで骨のカルシウムがとけて煮汁に出てくれる。
母が教えてくれた料理をベースに、娘の私が少し工夫して加える。

料理に限らず、すべてに通じることである。
良きものを子孫に伝える。時には進展させる。

子孫に伝えたものが本当に伝わるには、長い年月を待たねばならない。
母の言葉を深く感じ取れるようになるまでの間、私の学びが必要だったように。

暖かい湯気と香りが台所に広がり、鰯の団子汁が出来上がった。
私は大ぶりの椀にたっぷり具と汁を注いだ。
仕事から帰ってきた娘が「美味しい」と喜んで食べてくれた。

大きく変化した世の中で、私が娘に伝える言葉は単なるひとりごとに終るかも知れない。
きっと母も同じ思いを長年抱いて、孤独な日々を味わっていたはずだ。
時代を越えて、言葉に込めた思いが娘に伝わるときが訪れるかどうかは、未来に託すしかない。
母に似た孤独を感じる今、母が伝えたかったことにひとつずつ気づいては心の中に大切にしまっている。

2013年11月

母との時間

八十五歳の母は、時々電話で、「会って一緒に食事したい」「遠いから、真中あたりの所に集まって、何か美味しいものを食べよう」と話した。

先日、次女の仕事休みを利用して二人で久しぶりに会いに行こうと思い、母に電話で伝えた。
母は「最近、テレビで歌の番組を見ている」と言い、「あなたの歌が聴きたい」「カラオケできる店でいいから行こう」と話が弾んだ。
会えた時が最後だと母は思っている。
歌を聴きたいという母の言葉が、私の耳に残った。

学生時代、私は部活の合唱でメゾソプラノだった。
当時全盛だったフォークソングをギターで弾き語りし、人の前でも歌っていた。

クラシック音楽に造詣が深く、とりわけショパンが大好きな母だ。
フォークソングも知っているのは、きっと私のせいに違いない。

こうして母の待つ故郷へ向かった。
駅に到着し改札口まで行くと、向こう側に、手押し車の椅子に腰かけて人を探す母らしき姿が見えた。
母は痩せて小さくなっていた。

昼食をとった後、母は買い物に歩きながら歌える店を探して何店か見つけたと言い
「今からどう? それとも次にする?」と尋ねた。
延期すればすぐ後悔するのはわかっていた。
私は喜んで母について行った。

休日で店はどこも満員。結局『歌える喫茶店』に入った。
知らない人の中で選曲に迷い、母に何の歌がいいか尋ねると『白いブランコ』とすぐ答えが返ってきた。
全部で三曲歌った。
「またここに一人でも来たい」母は帰り際に言った。
「近ければ、一緒に来てあげられるのにね」切ない思いで私は言った。

旅を終えた翌日のこと、突然あるメロディーが頭の中を駆け巡った。
素敵なこの歌を母に聴いてもらえばよかった、と思いながら、しばらく口ずさんだ。
次女に話すと「じゃあ、また今度ね」と言った。
そうだ、母に「この歌を、また今度ね」と伝えよう。
きっとまた会える。
そう思って、私は受話器を手に取った。

2013年10月

私と学習

私の趣味は学ぶことである。
それまでわからないまま終っていたことが理解できた瞬間は、急に光が差し込んできたような深い幸せを感じる。

現実の生活は険しい山谷の連続だが、学ぶことは、そんな現実を乗り越える力を私に与えてくれる。

昨日より今日、今日より明日。毎日こつこつと学ぶのが私のスタイルである。
それは、はるか昔、四十年前の大学通信教育から始まった。

一課題につき原稿用紙五枚のレポートを提出し、四課題すべて合格して、やっと一科目を受験できるのである。
卒業論文の枚数や、卒業に必要な単位数は、通学と全く同じであった。
多くの人が入学するなか、卒業できる人数は「爪の上の土」ほどわずかなのが現状だ、とよく言われたものである。
その通り、私の卒業までの道のりも、平坦なものではなかった。

独身時代に入学したが、結婚後、長女を出産するため休学した。
そして六年後、次女の幼稚園入園時に復学し、結局足掛け十四年を経て卒業した。
そのため、卒業式の日は周りを見回しても、初めて会う人ばかりだった。

卒業までの長い年月のなかで、今でも鮮明に記憶している出来事がふたつある。

そのひとつが、卒業論文を書き終えた時のことである。
原稿用紙百枚目の最後の升目に、文字を清書し終えた瞬間の言い尽くせない感動は、今でも忘れられない。

もうひとつの記憶は、復学して間もない頃の試験日のことである。
早朝に弁当を作り、幼い二人の娘が退屈しないように、折り紙や鋏、糊、絵本、菓子など、考えつくものすべてを用意し、大学まで二人を伴って、科目試験を受けに行った。

試験会場の教室に入る前に、廊下の机に弁当などを並べ、そこに二人を坐らせて、教室で娘から一番近い席を選び、考古学の答案用紙に向かった。

数十分経った頃、菓子を食べながら折り紙をしている娘たちに、男性の試験官が、「お母さんは紙にいっぱい書いているから、合格だよ」と、話している優しい声が聞こえた。
思わず涙が出そうになったのを憶えている。
当時、子どもを連れて受験するのは、私だけだったように思う。

それから二十五年以上経った。現在五十八才の私は、やはり学習を続けている。

最近、ワードやエクセルなどパソコンを修得し、四十年間描き続けている日本画作品の、ブログとホームページも作ってみた。
買物に通う往復一時間の道を、イヤホンを耳に英語をつぶやきながら歩いている。
エッセイの学習も始めた。
いつの日か英語でエッセイを、と夢をふくらませている。

学ぶことは本当に楽しい。
私の何よりのアンチエイジングとなっているようである。

2013年9月

私と日本画Essay

はるか昔の中学生時代、教科書で見た仏画の鉄線描。
線の美しさに深く感動したことを、40年以上経った今でも鮮明に憶えています。
私の原点です。

日本画に精神性を感じ、若い頃から描いてきました。
その後、私の歩みのなかで、乗り越えることが幾度も訪れるたびに、絵は変わらず支えてくれました。

暗闇の中で絵筆を持つ日、
一条の光を感じて描く日、
いろいろな日々のなかに、気づきと新たな深まりが少しでもあれば、絵と静かに語らえるならば、私は幸せです。
絵は私の友です。

池内 佑衣

肖像画注文制作

-あなたやご家族、ペットの姿を日本画に-
肖像画は、写真とはまた違った雰囲気を持つ、心温まる芸術です。
日本画の肖像画は、優しく繊細です。
写真を一枚 お送りいただければ、透明感のある日本画の肖像画にしてお届けします。

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